「補食」という言葉を、父が知った日
土曜の朝6時半、セブンイレブンのおにぎり棚の前で、私は本気で固まっていました。
梅、ツナマヨ、鮭、昆布、明太子。10種類近く並んだ棚の前で、何を選べばいいのか、まったく分からなかったのです。
差し入れ当番が私に回ってきたのは、前日の夜のことです。
「明日、下の子の歯医者があるから、練習の差し入れ、お願いできる? うちと○○くんのぶん、二つでいいから」
夕食の片付けをしながら、妻がそう言いました。うちのチームには二人一組の当番制があって、練習の合間に子どもたちが口にする「補食」を、組んだ相手と交代で持ち寄る決まりなのだそうです。それまで、その存在すら知りませんでした。
差し入れ当番は、これまでずっと妻の担当でした。何を用意すればいいのか、その場でもう少し詳しく聞いておけばよかったのですが、「二つでいいから」という一言だけで、話は終わっていました。翌朝、歯医者に向かう妻を送り出したあと、結局、自分の勘だけを頼りに棚の前に立つことになりました。
とりあえず、一番大きそうなツナマヨのおにぎりを二つ買って、家にあったサーモスの保冷バッグに突っ込み、車に乗り込みました。グラウンドまでは15分。信号待ちのあいだ、これで大丈夫だろうかと、少しだけ不安になっていたのを覚えています。
着いてみると、他の保護者が持ってきているのは、小ぶりのおにぎりや、バナナ、小さいパックのゼリー飲料でした。自分の選んだ、やけに重たいツナマヨが、急に間違って見えてきます。
案の定、練習前に配られたそれを、息子は半分だけ食べて、残りをベンチに置いたまま守備につきました。
重すぎたのかもしれないと、フェンス際に立って、隅のほうから見ていました。7月に入ったばかりで、朝からもう蝉が鳴いていて、グラウンドの土埃が、風のたびに白く舞っていました。
休憩時間、隣で麦茶を配っていた6年生のママが、やさしく教えてくれました。
「練習前は軽いのがいいんですよ。梅とか塩とか。動いた後にツナとか鮭とか、たんぱく質系のものを」
「そうなんですか」としか、私には返せませんでした。
「補食っていうんですって。三食で足りない分を、練習の前後で補うやつ。うちも最初知らなくて、同じことやりました。運動会のお弁当みたいに、おかず山盛りで持ってきちゃって」
同じ失敗をした人がいる、というだけで、少し気が楽になった気がします。
「じゃあ、次はどうすれば」と聞くと、スマホのメモを見せてくれました。栄養指導の講習会でもらった資料を、写真に撮って残していたそうです。運動前は炭水化物中心、運動後はたんぱく質もあわせて。そのくらいのことが、簡単な言葉で書いてありました。
次の練習日は、私が二種類買っていきました。今度は失敗したくない、という気持ちが強かったのだと思います。
練習前用に梅と塩むすび、練習後用にツナと鮭。バナナも一本、荷物の隅に忍ばせておきました。渡すタイミングも変えてみました。朝は軽めのものを、終わったあとにしっかりめのものを。
その日は妻も一緒でしたが、渡す係は私に任せてくれました。「あなたが覚えたことだから、あなたがやって」と言われて、少し照れくさかったのを覚えています。前の週にツナマヨで失敗した話は、妻にはまだ詳しくしていません。それでも、荷物の中身が変わっていることには、何も聞かずに気づいていたようでした。
息子は特に何も言いませんでしたが、鮭のおにぎりを渡した帰り道、車の中でひとこと言いました。
「鮭、うまかった」
それだけの言葉でしたが、妙にほっとしたのを覚えています。
技術は、教えられません。フォームも、投げ方も、私が口を出せば余計にこじれることを、もう知っています。
でも、おにぎりの具を考えることくらいなら、できるのだと思いました。
たいしたことではないのかもしれません。それでも、知らなかったことを一つ知って、それを次の週から実践できた、という手応えだけは残った気がしています。面倒な役回りだと思っていた差し入れ当番が、少しずつ、自分にもできる役割のひとつに変わっていきました。
今、息子は中学の野球部にいて、練習は学校で完結します。保護者が差し入れをする機会は、もうほとんどありません。
それでも、休みの日に自主練へ行くとき、鞄に塩むすびとバナナを入れる癖だけは、まだ抜けていないのです。
たぶん、あの土曜の朝の気まずさが、今も少しだけ残っているのだと思います。