失敗しても笑える場所。次男の話で知った、少年野球のやさしさ
私は熱血野球パパ、ではありません。
練習にも試合にも、ほとんど行けていない父親です。だから、次男の野球チームの空気は、いつも本人の話から想像するしかありません。その場にいた人の話と、伝聞で組み立てる景色が違うのは、承知のうえです。それでも、次男の言葉を拾うしかありません。
最近、次男から聞く話で印象に残っているのは、「失敗の話が多い」ということです。しかも、暗い失敗ではないのです。どちらかといえば、笑いながら話せる失敗ばかりなのです。
ある日の話はこうでした。
練習中、誰かが教わっている最中に失敗した。それは分かります。ただ、そのあと、教えていた監督まで失敗した、というのです。しかも子どもたちは、その監督の失敗のほうを、家に持ち帰って話の種にしている。自分の失敗より、大人の失敗のほうが面白い。よく分かります。私も子どもの頃は、たぶんそうでした。
別の日は、コーチに教わっていたらコーチがこけて、全員で笑った、という話。
また別の日は、次男が打った打球がどこかに当たって変な方向に跳ね返り、キャッチャーのほうに飛んでいった、という話。ちなみに次男自身は、試合でデッドボールをお腹に受けて悶絶したこともあります。その話も、なぜか笑いながらしていました。お腹にあざが残っていたはずなのに、です。
こうして並べてみると、なかなか賑やかなチームです。
真剣にやっているはずなのに、どこかに笑いが残っている。その「残り方」が、父親としては少し安心するところでもあります。ぴりぴりした練習しかしていないチームからは、たぶんこういう話は家に持ち帰られません。
もちろん、失敗していい、という話ではありません。試合でミスをすれば悔しいだろうし、チームに迷惑をかけたと落ち込むこともあると思います。現にうちの次男も、帰りの車で黙りこくっている日はあります。何を言っても短い返事しか返ってこない夜が、たまにあります。そういう日は、こちらも余計なことを言いません。
それでも、失敗の話を、家に帰ってから笑いながらできる、ということは、悪いことではない気がしています。
大人でもそうです。
失敗を笑える場所と、笑えない場所がある。仕事でも、家庭でも同じです。何をしても責められる場所だと、人はだんだん話さなくなります。面白かった出来事も、家に持ち帰ってこなくなります。嫌なことだけが記憶に残って、良かったことが薄れていく。大人になってから、それはよく分かるようになりました。
だから次男が「今日、コーチがこけてさあ」と笑いながら話すとき、私は少しだけその場の空気を想像します。きっと本当は、夏の土ぼこりの中で、みんな汗だくで、Tシャツに白い塩が浮いていて、真面目に練習している一瞬だったはずです。その中で、ちゃんと笑える余裕がある。それは子どもにとって、たぶんけっこう大事なことなのだと思います。
次男は話を盛ります。
「試合前に水を浴びると盗塁を失敗する」
「監督が盗塁のサインを出すと全部アウトになる」
そんな、どこまで本当なのか分からない話を、真顔でしてきます。たぶん三割くらいは誇張です。でも残りの七割には、チーム全体の空気がちゃんと入っている気がするのです。子どもの誇張は、嘘ではなく、要約に近い。
子どもたちだけじゃなく、監督もコーチも失敗する。みんなで笑う。それでもまた翌週練習する。失敗の話が薄れる前に、次の失敗が来て、記憶が上書きされていく。次男の話をつなげて聞いていると、そういうチームの回り方が見えてきます。
親としては、つい「ちゃんとできたか」を気にしてしまいます。ミスしていないか、迷惑をかけていないか、怒られていないか。スコアや打順の話を先に知りたくなる。父親の性(さが)なのかもしれません。LINEで妻に試合結果を聞いてしまう自分がいます。
でも、次男の話を聞いていると、失敗そのものより、その失敗をどう受け止めてもらえるかのほうが、たぶん何倍も大事なのです。そして、子どもはそれをちゃんと見分けています。どの大人が安全で、どの大人がそうじゃないか。最初の数回のやり取りで、もう判定を済ませています。
私は現場に行けていないので、偉そうなことは言えません。
それでも、次男が失敗の話を笑って持ち帰ってくるうちは、その場所にはまだ、安心できる余白があるのだと思いたいのです。
野球は、うまくなるためにやるものかもしれません。
でも、失敗してもまた行ける場所であることも、同じくらい、たぶん大事です。
次男の話は、だいたい脱線しています。
でも、その脱線の中に、チームのやさしさのようなものが、ちゃんと残っています。
私は今日もそれを聞きながら、行けなかったグラウンドの景色を、少し想像しています。