「勉強は苦手でも、野球のサインミスはゼロ。息子の脳が『複雑なルール』をすんなり受け入れた意外な理由」
教育

「勉強は苦手でも、野球のサインミスはゼロ。息子の脳が『複雑なルール』をすんなり受け入れた意外な理由」

きむら

「暗記」ではなく「感覚」でルールを掴む力

学校のテスト範囲は覚えられないのに、野球のルールに関してはよく理解している息子。 親から見れば不思議な現象ですが、彼を見てきて、一つの仮説を立てました。

彼はルールを「言葉」で覚えているのではなく、プレーのタイミングや流れを「感覚的、体系的」に掴んでいるのではないか?ということです。

なぜ「サインミス」が起きないのか

ルールを表面だけで学んでいる子は、緊張や焦りで「サインミス」をすることがあります。 しかし、息子にはそれがほとんどありません。

試合中に監督に指示を出されたり注意されるとき、選手は帽子を取って「はい!」と返事をします。しかし、息子は、帽子も取らずに「うんうん」とうなずきます。親は、そんな姿に冷や汗ものです。

そんな彼ですが、サインミスを起こすことはほとんどないのです。

たとえ監督の出すサインに心の中で「えっ?」と納得がいかないことがあっても、彼はミスをしません。 それは、今の試合展開の中で「今、何をすべきか(あるいは、やってはいけないか)」という最適解を、野球の構造から理解しているから。

彼にとってサインは、バラバラな命令ではなく、勝利に向かうための「必然的なパズルのピース」として見えているのかもしれません。

「公平さ」が、彼を自由にしている

息子は、いわゆる「野球部同士で固まる」タイプではありません。

野球部だろうが帰宅部だろうが、自分が「気が合う」と思えば誰とでも対等に付き合う。 そんな彼にとって、体育会系特有の「年上だから敬語」「先輩だから絶対」という理不尽な上下関係は、納得のいかない不思議な慣習に映っているようでした。

野球は、ルールが複雑であればあるほど、裏を返せば「例外のない公平なスポーツ」だと言えます。 

例えば、タッチアップ。 「フライをキャッチするまで走者はスタートできない」というルールがなければ、打者はわざと高く打ち上げ、走者に時間を稼ぐことができてしまいます。 そんなのズルイし、不公平。

息子にとって野球のルールは、縛り付けるための「校則」ではなく、全員が納得して戦うための「公平な法律」だったのです。

「人類みな平等」を地で行く息子にとって、学校や社会にある曖昧な上下関係や、理由のない敬語は息苦しいもの。

けれど、グラウンドに一歩入れば、そこには「公平なルール」という名の安心感があります。 ルールがあるからこそ、その中で最大限に戦略を練り、本当の自由を得て動ける。 

彼が野球を「難しい」と言わず、むしろ楽しそうにプレーしているのは、その公平な世界を誰よりも信頼しているからだと思うのです。

私は誰よりも彼を理解していたかった

正直に言えば、彼は世に言う「手のかかる子」であり、親として頭を抱えるような「困った」場面も数え切れないほどありました。

周囲と摩擦を起こすたびに不安になることもありましたが、一番の味方でありたいと見守り続けてきたからこそ、彼の中に眠る「学びのスイッチ」を見つけることができました。

彼は決して、最初からすべてを完璧にこなすわけではありません。

グラウンドでの彼は、常に「こうかな?」「これはどうや?」と、目の前の状況に対して泥臭く試行錯誤を繰り返しています。

失敗しては修正し、また試す。

そのプロセスを経て、自分なりの最適解を導き出していくのです。

この姿を見て、私はハッとしました。

それは、私たちが勉強で英単語を繰り返し書いたり、問題集を反復したりする姿そのものだったからです。

「勉強ができない」のではなく、彼にとっての野球のルールは、机の上の教科書よりもずっと「試行錯誤しがいのある、生きた教材」だったのでしょう。

納得できるフィールドであれば、彼は誰に言われずとも自ら反復し、学びを深める力を持っています。

ルールを理解し、仮説を立て、実践の中で磨き上げる。

この野球を通じて身につけた「自分なりの学び方」は、いつか彼が本当に納得できる対象に出会ったとき、勉強や仕事というフィールドでも必ず花開くはずです。

母として、その「納得スイッチ」が押される日を、これからも信じて見守り続けていきたいと思います。

きむら